インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

わたしの欲は世界の欲

それから感覚の変化について。

自分の安全領域の外のものは、落胆を感じないよう、無意識に欲しいとも感じないよう遮断していた。そのことに、このインドツアーで気づいてしまった。
それはつまり、今まで遮断していた、欲しいという感覚、それに伴う、落胆や悔しさを感じられるようになったということだ。

まず帰りの飛行機ではっきり気づいた。

帰りはツアー参加者のうち過半数が、ビジネスクラスに乗っていた。
機内の座席だけではなく、空港でのラウンジ利用も、搭乗案内も差がある。
行きにはふんわり、ビジネスクラスって快適なのかなあ、いいなあ、そう思っただけだった。
だけど帰りは違っていた。

すごく悔しい。

別にエコノミーでも充分なのだ、わたしはどこでも寝られるし、行きも快適だったのだから。

だけど、そういう話じゃない。

メカニズム上は感覚に制限はないし、すべて選ぶことが出来る、望むことが出来る。
そのはずなのに、私はビジネスクラスを「選ぶことが出来ない」と思っている、今は。
自分には手に入らないもの、として、そこにある。

それが悔しい。
いいなあ、なんて可愛い気持ちじゃない。
もはや真顔で、ビジネスクラスに乗っている人が現実に存在しているのに、なんで私は違うの?なんで選べないの?
そう怒りに近い感覚があるくらい、悔しい。

今の私がビジネスクラスを選ぶのはバンジーだ。無理して何十万出して乗っても、おそらくガチガチに恐怖と心配が先立って、楽しんで味わうことなど出来ない。それは意味がない。
実際、ツアー申し込みの時には選択肢にも、望みとしてすら感じなかった、安全領域外だったからだ。

今まで抑圧していたせいか、欲が暴れる。

この、自分の安全領域外を望むこととセットの、落胆や悔しさに気づく範囲は、日に日に広がった。

素敵な家具や食器、これまでは「わあ素敵ですね!」と思い口にしたとしても、結局は「自分とは関係ない」という態度だった。だから何も思わなかった。
今は、え?なんで私は選べないの?どうして?と内側から強い問いかけが湧いてくる。
つまり、そこが、私が満たしておらず、制限しているところなのだ。

もはや、ほとんどすべてのことに、制限と抑圧を持っている。
衣食住環境、人間関係、時間、仕事、可愛いペット、日常のすべて。
全部好きに選びたい、しかし、それをこれまでわたしはまったくやってこなかった。
人目やお金や何かの条件で、制限して、自分も騙してきた。

自分の好き、自分の望み、自分の選択に向かって進むということを完全に怠っていた。
目を逸らして封印して、好きじゃないもの、心身に合わないものを纏っていたのだ。
何かしらの、"安全"と思われる条件、自分以外の基準で選んで。

だから今、ついに認めた欲望が暴れる。

ゾルバ・ザ・ブッダ。
ゾルバの強欲を認めざるを得ない。
欲しくないです、そんな顔して遮断していただけで、わたしはものすごく強欲だ。

今すぐの物理現象には制限があるから、どうしても悔しい思いをすることが多い。

ありがたいことに、今のわたしは意識のこと、感覚の取り扱いを少しはわかっている。
落胆や悔しさが湧いてきても、面白がることが出来る。
自分の望みを知る手掛かりであり、大きなパワーとして利用することが出来る。

もし、一年半前、意識の取り扱い方やメカニズムを知らずに、この地獄の蓋を開けてしまったら。

それはとても危険だった!

悔しくて、妬ましくて、怒りに塗れて、潰れてしまったかもしれない。
または、早々にまた蓋を閉じて、感じないよう封印したかもしれない。実際そうだったのだから。

だから、このタイミングで良かったのだ。

落胆や悔しさや怒りに、あまりに長時間浸り切る必要はないけど、これらもエネルギーでありパワーである。
落胆の裏には、本当はどうが良かったのか?それが確実にある。落胆や悔しさに一時寄り添ったら、裏にある望みを感じること。
何が嫌なのか、何に惹かれるのか、何を感じたあのか。
どこに自分が反応しているのか、細かく感じる。
望む感覚にフォーカスすることになり、落胆や悔しさの強いエネルギーはそのまま、望みに向かう強い推進力、パワーに転換される。

欲はパワーなのだ。
そして。

「わたしの欲は世界の欲」


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プネー空港のお土産屋さんで買った、ミラーワークのキラキラしたゴールドノートに書いた言葉。

わたしたちは全体性のなかで生きている。

わたしの欲はわたしだけのものではないのだ。
パズルの凹凸のように、大きな流れの中で引き合っている。
わたしに買われる必要があるもの、次の展開のために必要なもの、わたしから生み出されるものを必要としている人、わたしが運ぶべきもの。

何かのために何かをするわけじゃない、一瞬一瞬それ自体を感じるためだけに存在している。
だけど、その一瞬に味わった感覚、その発したエネルギーが、私の身体を次の瞬間へ運んでいく。
どんな瞬間にリープするのか、それはわたしの感覚がつくる。

大きな大きな、わたしの世界という大きなわたし自身のからだ、全体性のなかで、小さな人間の私もひとつのピースにすぎない。

個として、私が私の音を響かせる、私を全うする、それ以上のことがあるだろうか?
白は白、黒は黒であるから、絵が完成する。黒い点が良い悪いもない、その場所でその色を発揮するのだ。
パズルのピースは、その形が必要なのだ。

絵もパズルも、完成させるのが王道の楽しみ方だ。
もちろん外れるのも良い、すべて自由だ。
だけど、わたしは最大限、クリアに、強く、響かせてみたい。
そしてわたしの世界で、響き合わせてみたい。
そのとき何が起こるのか、見てみたい。

だから、自分から湧き上がるものを止めない。
欲はパワーだ、パワーを溜め込んで腐らせることはしない。宝を溜め込んで腐らせたケチババアのように。
腐ったパワーは私を蝕み、わたしの世界を蝕むが、表に出せば、その宝は陽の光を浴びて輝き、世界を照らす。