インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

おわりではじまり

この旅行記を書き始めてから約二ヶ月が経っている。

旅行記と題してはいるが、インドのことはほとんど書いていない。
これはわたしの内側の変容、そのはじまりの物語だ。

無意識に遮断していた感覚が、開いたのだから、変わらざるを得ない。

気づきを分かち合う手段として、表現の楽しみとして、自分への決意表明として、この物語を記した。
同時に、変わっていくわたしを見て不安を感じる人、新しく出会う人に向けて、自分がどういう考えで動いているのか、自己開示と自己紹介のつもりでも書いた。

だから仲間内だけで通じる言葉ではなく、誰にでも通じやすい言葉で、曖昧な表現ではなく具体的に表したつもりだ。

広く様々な人に読んでもらえたら嬉しい。

わたしはこの物語に、はじまりの音が宿るよう意図した。
これが誰かの、何かの、はじまりに触れ、そっと後押し出来たら、なお嬉しい。

世界は動いている、変化しつづけている。
止まっていることなどできない。
だから、はじめよう。
動き、変化することが自然で、止まりつづけることは苦しいのだ。
誰でも、どんなものでも。

存在以外は。


ここまでの本編で、いまわたしが大切にしているエッセンスをほとんど書き表せたつもりだ。

ただ、書ききれなかったことが二つある。
最後にそれを書いておきたい。


まず一つ目。
不動の存在にくつろぐこと。

実のところ、目に見えている物理的な現象世界とそこで生きる自我を持つ“私”と、その奥または超えた先に、アイデンティティも過去も未来もあらゆることを落っことした、裸の“存在”としての大きな“わたし”が存在しているのだ。

存在としての大きな“わたし”は、いつでも今この瞬間、この場所に不動でいる。

常に変化する現象世界で生き生きと動きながら、不動の存在にくつろぐこと。
その両方のバランスをとること。

突然、少し不思議な言い回しになってしまったけど、要は動と静のバランスだ。

この旅行記は、はじまりの動のエネルギー、情熱、行動のエネルギーに比重を置いているので、ほっとリラックスする静のエネルギーが土台にあるからこそ大きく動けるということを、強調しておきたい。

外側の条件、肩書や能力や容姿や性格、アイデンティティのすべて、過去も未来も、すべてのものを持たない、何もない自分。
生まれる前よりもっと前に戻った、何もない裸の自分。
その感覚にくつろいで、いつでもその場所をホームポジションとして忘れずに戻ること。

外側の条件が自分自身の価値だと誤認すると、移ろいやすいそれらが崩れるたびに傷つき、そうならないよう守るために必死に執着することになる。
いつでも、何もない裸の存在が本当の自分で、そこにくつろぐ感覚を思い出そう。

ホームの感覚があってこそ、思い切り行動できる。


それから、二つ目。
身体を愛でること。

ここでは、栄養に優れた食べ物を摂る、ジャンクフードを食べない、筋トレとストレッチを欠かさない、などとは少し違うことを意味している。

「感覚」は五感で出来ているので、五感を大切に味わうこと。注意を払うこと。
肉体が感覚の受信機であり発信機であるから、大切に撫でて、文字通り愛でること。

身体を撫でる行為は、ものすごく効果的だ。
感覚が変わる。開く。
自然と感じること、浮かぶ考え、出来事も変わってくる。

受信機かつ発信機である身体に溜まっていた感覚が浮き上がってくることもある。
それは残ったままより、表に出て解放されていくほうがよいので、そのまま流そう。

自分の手のひらで、ゆっくり、頭、腕、胸、腹、足、足の裏など、隈なく優しく撫でる。
じっくり手当てするのも良い。

毎日お風呂や寝る前の習慣にして、それどころか暇さえあれば撫でる。

ゼロ円で簡単に出来る、最高最強のおすすめツールだ。


これで本当に、いまわたしが言えるすべてを込められたと思う。

これは、はじまりだ。
この先またどんな物語が展開するのか、いつか続きを書けたら嬉しい。

誰よりもわたしが楽しみにしている。

 

<完>