インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

ブレイクスルー

「思考」がいったい何なのか、どういう役割のものなのか、結局よくわからない。
おそらくこの世というフィクション、創造の重要な仕掛けなんじゃないかと思う。

意識の探究を行う分野で、ときに思考はやや肩身が狭くなるような取り扱われ方をする印象がある。
「暴走した思考よ黙れ!」といった具合に。
思考そのものが悪だとかネガティブだとか言われていないはずだけど、やっぱり自分のなかの暴走する思考に直面すると、時々言いたくなる。
「お黙りください」

意識の探究、つまり自分の内側で何が起こっているのか、どうしたら良い気分でいられるのか、その試行錯誤が始まってから、最初のどデカい壁であり気づきは、「思考」と「感覚」の区別がつくようになったことだった。

アレコレ始めてから、ほぼ一年が経とうとしている頃だった。

それまでももちろん、自力蹴り走法の自転車乗りとして、「感覚が大事、良い気分をえらぼう!」または「リラックスして呼吸を感じる」その他オススメのワークを真面目にやっていた。
やっていたつもりだった。

内側の感覚が、世界(現象含む)を創っている。
思考を鎮めて、自分の感覚を取り戻そう。
感覚とは、肉体感覚である。
暴走した思考は外からやってきた、自分以外の何か。
自分自身の感覚が、唯一重要なもの。
どんな感覚、どんな感情、望みであろうと、内側においては自由であり、尊重し、全面許可すべき大切なもの。

それが基本方針だったから。
注:全面許可は感覚の話であり、傍若無人な行動をぶつけてOKという話ではない

しかしある夏の日に、ふと気がついた。

それまでなんと私は、「〇〇を感じている」と言いながら「〇〇を感じている、と思考している」だったのだ!
つまり、思考があまりにうるさすぎて、頭のおしゃべりが分厚すぎて、「感覚」と「思考」の区別がついていなかったのだ!

そんなことある?と、気づいた瞬間のわたしも思った。
でも実際にそうだった。

これが大きなターニングポイントだった。

ここから「感覚」がベースになるメカニズムが少しずつ「体感」として腑に落ちてきた。

現象は違っても、感覚は同じ。みな等しく同じ感覚を持っていて、自分で選択できる。
感覚が世界を創る。
感じていると、現象は異なっていても、同じ感覚を得られる出来事が起こる。
わたしたちが求めているのは、現象のほうではなく、感覚なのだ。

それが腑に落ちてきて、今回そのメカニズムにより、こうしてインド旅行へ行く現実になったと思っている。

というのも、インド旅行の話が浮上する前日、私はとあるSNSのライブ配信に釘付けだった。

ある画家の個展で、それまで絵画を購入したことのない人たちが、自分のために何十万する絵を購入する様子を配信していた。
彼らは、自分の感覚に従い、それまで行ったことのないことをする決断していた。
効率や安全や実用性ではなく、歓びのためだけに自分に絵画を贈るという体験と決断。

それを見て、とても興奮した。
ブレイクスルー、自分には出来ないと思っていたことをやり遂げた歓び、思い込みの外へ突破するパワー、目の前が拓ける自由と解放感。
それをわたしも一緒に体験していた。
わたしにも、現象は違っても同じ感覚を味わえることが起こるはずだ、と感じながら、ブレイクスルーの歓びを一緒に味わっていた。

だから翌日、参加している内観コミュニティでインドツアー募集があったときに、すぐにわかったのだ。
これがわたしのブレイクスルーだ!

望んだ感覚を味わえる現象が、早速やってきた、と。
ここで掴まないのは、無いでしょう。

用事もなく、行ってみたいという理由だけの海外旅行、それもインドという未知の場所。
お金ももちろんそこそこかかる。
何より、約二週間後に平日五連休を取る、というチャレンジ。
ハードルはある、でもこの決断に興奮した。
即、その日のうちに連休取得をかけあって、仕事を調整した。

実際、休みが取れなくても、インドに行けなくても、この行ってみたいという自分の望みを聞いて、決断し、行動したことが、歓びだった。
前日に感じていたのと同じ、ブレイクスルーの大興奮だった。

だから実のところ、旅行参加も何も決まっていないこの時点で、わたしのインド旅行の最も重要で美味しいところは終わっているのだ。
ここが一番のハイライトだった。

その後無事、正式な申込と選考での参加者決定により、インドツアー参加が確定した。

この時の行動を振り返ると、我ながらとても素早かった。
これには「感覚」の訓練だけでなく、それまでの「決断」の訓練が大いに活きたと思う。