インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

崩壊

無事、インドから戻った!

帰国してから実はすでに一週間以上、経っている。

インドに行くと人生観が変わる。
そんなふうに言われるのをよく聞く。

結論から言うと、わたしは今回の旅で、人生観というより、人格が剥がれ落ちた。
この一週間、ずっと剥がれ落ち続けている。

わたしの中でインドが終わらない。

はじめに断っておくと、わたしたちのツアーは一般的に想像するようなインド旅行ではない。

総勢11人に終始現地のアテンドが付き、清潔な高級ホテルとインターナショナルな瞑想センターでほとんどの時間を過ごした。
だから、衛生観念や交通事情ほか、そこまで日本の価値観が崩れるようなカルチャーショックを味わったわけでもない。

わたしの人格=蓄積された思い込みパターンの崩壊が起こったのは、インドという土地と文化の力だけが要因ではない。
OSHOという偉大な神秘家の力、そのアシュラムで体験した瞑想の力のためだけでもない。

もちろんそれらは欠かせないものだった。
それでも、ただインドに行くだけでは、ただ瞑想するだけでは、今回のような変容は起こらなかったと思う。

共に旅した仲間、何よりこのツアーを主催し、導いてくれた人の力が大きかった。
わたしたちは、自分の内側を省みて、精神性を高めようと真摯に望む集団だった。
この三泊五日の短い旅に、それぞれ真剣にコミットして臨んでいた。

その集中力の高まりと導きが、インドでの最終日にわたしの人格に稲妻を落とし、今でも崩壊と変容が止まらない。

杭につながれて育った小ゾウは、大人に成長して大きな躰とパワーを得た後でも、決して杭を抜いて外へ出て行くことはない。
自分に杭が引き抜けるとは思いもしないから。

そんな話を聞いたことはないだろうか。

わたしに起こったことは、自分は杭を引き抜けるのだ、と気づいてしまうことだった。
自分はもう力のない子ゾウではない、自由なのだと、気づいてしまうことだった。

言葉にするとありふれた話だけど、ものすごい衝撃を伴う事実だ。

だって、もうずっと、外に行きたいなど本当の意味では望みすらしていなかったのだ!
夢見たことはあるかもしれない、でもそれは、諦めと同時だ。不可能なお伽噺を鼻で笑いながら口にしてみただけだ。
だってもし本当に試していたら、とうに杭は抜けているのだから。

または何処かで勘づいていて、見ないフリをしていたのかもしれない。
杭が抜けてしまっては困るのだ、外に本当に行けてしまったら?
外で一匹、自由に生きて行くのは恐ろしいのだから。

だから気づかずにいたかったのだ。
実際に、諦めていることも、望んでいることも、制限があることにすら、まったく気づいていなかった。

一切、何も感じなかった。

自分の世界はサーカスのなかだけ、自分の生き方はサーカスのなかだけ、自分が望めることは今日と同じ日が続くことだけ、さらに望めるなら、できるだけ苦痛が少なく、不快が少なければ、幸運だ。

自分が何十年過ごしたこの現実が、実は制限の中で、自分は夢見ることも望むことも諦めて、惨めさを感じないよう本心に蓋をして、じっと我慢して一生を過ごそうとしているなんて。
そんなこと。

誰が知りたい?

わたしに起こったのは、そういうことだった。
今も毎日起こり続けている。

幸いなのは、既に杭を抜く力があり、もう制限の中にいる必要はないのだと、同時に知ったこと。
それから、外へ出て生きる勇気の火がわたしの中に灯されていること。

インドツアー出発前のわたしは、まったく同じことをこのインド旅行記に書いている。
そう、頭ではメカニズムを理解していたのだ!
ただそれを特大の稲妻として、自分自身の身で実際に体験したのだ。

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本当は何も問題ないのがデフォルトで、私たちが問題と思っている状況こそ問題だ、とするなら、私たちは勝手に自分で「制限」を作っているのだ。
自分にとってその制限はリアルで、さらにあたりまえになりすぎて表面上制限だとすら感じていない。

その制限に気づいて、制限の感覚を書き換えていくことを取り組んでいる。
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もうひとつ、インドツアー出発前のわたしは良いことを言った。

いつでも感覚の現在地から出発すること。

わたしは、自分の見えない檻を飛び出して行く、はじまりのエネルギーを人と分かち合いたいと思う。
だけど、急に直面してしまう衝撃にやるせなさや焦りを感じて、すくんでしまうようなら、その気持ちを大切にしてよいのだ。
無理矢理、恐怖に感覚を閉ざして、行動することはない。

結局、わたしたちが欲しいのは感覚なのだから。

自由、リラックス、歓び、ユーモア。
いつでも感覚の現在地を大切にしよう。
感覚は選べる。現在地から選べる好ましい感覚をチョイスしよう。
そうすれば、飛び石のように連なって、いつのまにか遠くまで運んでくれる。
いきなり現在地から遠く離れた、反発の強い痛いものに、ボロボロになりながら突っ込んではいけない。