インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

作為

さすがに暑い屋外で一時間踊り続けられるわけもなく、途中で広場を出て、アシュラム内のレストランへ。

その名もゾルバ・レストラン。

カフェテリア方式で、並んでいる食べものや料理から欲しいものをトレイに乗せて、最後にバウチャーで支払いをする。
席はすべてテラス席で、ウェルカムセンターとはまた異なる直線的で広い池の前に、席が並んでいる。
池の向こう側に樹々が並び、静かに葉が落ちていく。やはり静かで心落ち着く風景だ。

激しく踊り過ぎて食べられる気がしない、と言いながらも、もちろん食べた。
何か粉を焼いて具を挟んで半分に折った料理で、素朴な味わいだった。

この日は、夜までに三つ、瞑想プログラムを受けた。

ハミングと手の動きを使うナーダブラーマ瞑想。
身体を振動させエネルギーを通すクンダリーニ瞑想。
そして白いローブを着て集合するイブニング・ミーティング。

イブニング・ミーティングだけ長くて二時間近くあるけれど、他は一時間のプログラムだ。

これらはすべて、OSHOオーディトリアムと呼ばれる黒い大きなピラミッド型の建物で行われた。

OSHOオーディトリアムは、入り口へ向かう道の両脇が左右対称の四角い浅い池になっていて、わたしは瞑想でフラフラになった後、ピラミッドから吐き出されるように、この真ん中の道を歩くのが好きだった。
オーディトリアムの床は大理石で、とても硬くて冷たい!
中で自由に借りられる座椅子もあるけど、仰向けになることもあるので、そんなときはヨガマットのような敷物があると理想的だ。

それぞれの瞑想は、第一ステージが15分、第二ステージが15分……など、いくつかのパートに分けられ、ステージごと内容が変わる。

概要はオリエンテーションでもらった瞑想の手引きの冊子でも確認出来るし、やり方を動画で確認できる施設もある。
それに五分前にいけば、やり方の動画を流してくれて、英語だけど軽く補足説明もしてくれる。

この日に受けた三つの瞑想は、どれもサイレント(沈黙)のステージを含むものの、声をつかったり、踊ったりするものばかり。
一般的に瞑想といえばただ静かに座る、といったサイレントのイメージが強いので、ここまで動きが多いのは予想以上だった。

面白かったし、ただ座るより思考を鎮めて観察しやすいので、大歓迎である。

ナーダブラーマ瞑想は座位で、まずは第一ステージで30分、目と唇を閉じて一定の音でハミングを続ける。
誘導の音楽が流れるので、なんとなくそれに合わせたけれど、音程を変えてもよいらしい。
沈黙の瞑想より断然、思考が鎮まりやすい。
時間が経つにつれ、音も、身体に響く振動も大きくなり、周囲のハミングにも包まれ、ハミングをしている、というより、勝手に自分から音が鳴るような感覚になる。

それは第二ステージで、ハミングを止め、手を丸く外側へ、後半は内側へ、回すように動かす際にも、もっとハッキリ同じことが起こった。
手が勝手に、動かそうとしていなくても動くのだ!
コックリさんで勝手に手が動く感覚になるのと同じような原理が働いているのだろうか?
思考が働き出すけど、いまはただ勝手に動く手の感覚を楽しむことにした。

その後、第三ステージでは、無音でサイレント瞑想。この時のサイレントでは、私がよく陥る定番の思考のおしゃべりではなく、夢うつつ、ビジョンを見ていた。

次に受けたクンダリーニ瞑想は、四つのステージに分かれていた。
まずは、足元からエネルギーが上昇してくるのを感じながら、身体を細かく震わせる。岩のような、ひとかたまりではなく、身体のすべてのパーツがバラバラになるよう振動させる。

次の第二ステージはダンス。エネルギーを感じるままに動く。
このダンスのステージで、時々ふと我に返ることがあった。
「ここでピッと手を真っ直ぐ伸ばしたほうが(見栄えが)良い」「右にばかり行ったから、ここでバランスをとって同じことを左でもやろう」「次はこんなステップはどう?」
情熱的にエネルギーに没頭しているように見せかけて、一瞬の隙に計算をしている!
どう見られるかを。

続く第三ステージと第四ステージはサイレント。
第三は立位か座位で、第四は仰向けに寝転んで、ただ沈黙して観察をする。
このサイレントの時間、いつになく思考がうるさくて気が散って仕方がなかった。

「作為」

ダンスのステージで気づいてしまったこと。
努力、向上、一見良いように見えるが、やはり作為だ。

昨年、三ヶ月ほどSNS断ちをして、だいぶ焦りが抜けたと思っていたけど、また深く手放すときのようだ。

特別なものにしたい、もっとこんなふうにであるべきだ、こうしておいた方が後から苦労しない、責められない、困らない、こう言われたらこう言おう、あれはこうして、あのときのあれはああだったのだろうか。

過去と未来へ飛びながら、計算、計算、計算。
努力や向上や準備の名を借りた、計算、計算、計算。
それは壊れている、壊れた電卓だ。

もらった瞑想の手引きの冊子に書いてあった、OSHOの言葉がよみがえった。

「あなたがたはここに瞑想しにやってきて、それについて深刻になってしまう。(略)あなたにできるのはひとつだけ、空っぽの受け取り手になることだけ。そしてそれは、あなたが遊び戯れている時に起きる」

わたしはこの瞑想体験すら、せっかくだからと特別なものにしようと執着して、あれこれ計算して、何かを仕掛けようと思考している。
それ自体、瞑想から遠ざかることなのに。