インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

ダイナミック瞑想のあと、朝食を摂りに一度ホテルに戻った。
昨日と同じく、美味しい大満足ビュッフェ。朝から激しく動いたから、もりもり食べる。

次は十一時のプログラムに間に合うよう向かう予定だから、少し時間がある。
わたしは食べ終わったらすぐ部屋に戻ってシャワーを浴びることにした。

ダイナミック瞑想で汗だくになったから、というのもあるけど、まさかの鳥のフンがわたしの頭に直撃したのだ!
ダイナミック瞑想に向かう前、アシュラムの門前で。

その時はとにかく拭き取って、アルコールスプレーも髪に直接振りかけた。
実は前夜、眠さが勝って頭も洗わずシャワーで汗だけ流して寝てたので、強制的に頭洗えというメッセージなのかもしれない……

現地のインド人アテンドさんには「運が付きます!」と励まされた。
日本語の精通具合にびっくり。

というわけで、部屋でしっかり頭を洗っていたら、ルームメイトの一人が慌てた様子でやって来た。

話を聞くと、朝食後、そのまま主催者の女性によるタロットカードセッションが始まったらしい。
そして彼女は「裏切り」のカードが出て、その場で諸々内観して話し合った結果、わたしにモバイルWi-Fiを貸して欲しい、とお願いしに来たようだ。
内観で気づいた彼女のチャレンジのためにモバイルWi-Fiが必要だし、そもそもわたしにお願いすること自体も一種チャレンジだったらしい。

こんなふうに、ツアー中に気づいたことは即実践に移された。

この要所要所で挟んでくれたカードセッションが、このインド瞑想ツアーを、非常に得難いものにしていた。

三泊五日という短い期間、アシュラムでプログラムを受けるのは実質二日。
驚かれる短さだけど、濃密に過ごした。

一人でどれほど意識的になろうとしていても、恐らく限界がある。
OSHOのアシュラムという場のエネルギー、瞑想プログラムも、本当に素晴らしくて強力だ。
ただ、それを受け取るわたしたちの集中力、コミット。
それが途切れず続いたのは、無意識のメッセージを示すカードをきっかけにして、気づきに意識的になることを忘れなかったからだ。

この短い期間でも、隙あらば気が緩もうとする。
良い意味のリラックスということではなく、意識的であることを忘れる、という意味で。

カードを引いて、無意識領域に切り込むことで、意識的になることを忘れさせなかった。
それはきっと、仲良しのお友達、または希薄な表面上の関係では出来なかったことだ。

互いを信頼し、自分を信頼し、カードを信頼し、明晰であること、思い込みを超えていくこと、それを求める同志であること。
全員がその姿勢を持っていたし、そして何より、指導者として覚悟を持ってリードしてくれた主催者の女性の存在が大きかった。

自分自身のセッション内容はもちろん、他のメンバーのセッションを聞いていても非常に気づきが多かった。
目の前で交わされる会話は、偶然ではない。

セッション以外の場でも、それぞれの気づきを話し、聞くことで、自分一人では得られなかったたくさんの体験を感じられた。
それぞれの人生で感じたことの深く柔らかい部分。
なんて尊いんだろう。

頭を洗ってサッパリしたところで、再び朝食会場に降りて、カードセッションにわたしも混ぜてもらった。

f:id:shocoa:20240227062209j:image

わたしが引いたカードは「ABUNDANCE<あふれ出る豊かさ>」と「The Magician<魔術師>」

アバンダンスは、物質的な豊かさ、精神的な豊かさ、そして男性性のエネルギーも女性性のエネルギーも統合した、真に豊かな全体的な人間。
ゾルバ・ザ・ブッダの豊かさを表すカード。

魔術師は、言葉、コミュニケーションを使って行動していく男性性のエネルギーのカード。

もしかして、物質的な豊かさを制限しているんじゃない?
ブッダは満たしている気がするけど、ゾルバの欲を満たしていないような気がする。

その問いかけに、盛大に頷いた。

薄々気づいていた。少しずつ認めようともしていた。

あえて質素にしているよね?
そう言われて、振り返ってみれば、確かにそうだった。

本当は贅沢が好きなことには気づいていた。
細かいこと気にせず湯水のようにお金を使いたい。気をつけてないと使ってしまう。
たいてい一番贅沢な選択肢に心惹かれる。

一方で矛盾しているけど、突出することは好感度を下げるし、危険があると思っていた。
つまり、周囲から反感を買わない生活レベル、周囲から心配されない良識あるお金の使い方、それが大切でしょ?
友だちや家族、特にお金の話はデリケートなんだから、刺激したくない。
人からどう見えるか、“堅実”に見えるよう、妙に計算していた。

例えば、誰かと食事に行くとき。相手の金銭感覚が気になって、価格帯を慎重に探るし、低めに提示する。
または相手に任せて、自分の意見は曖昧に濁す。
お金のことで気まずい思いをしたくないから。

服や装いも、高いものは身につけるべきじゃない。周囲から浮いたり、驚かれたりしないようにね。安全無難第一。

そもそも実際に薄給というべきか、固定額からやり繰りすべき身の上なんだから、高いものなんて買うべきでもない。
身の丈に合った生活をするんだよ。
それはもう耳にタコが出来るほど言い聞かされて来た言葉。

だけど、何も関係なかったら?

過去をすべて置いて、今この瞬間、あたらしく望んで良いなら?
人目や現実の条件をいったん置いて、純粋にただただ、どうが良いのか、自分の望みを見てあげるなら?

だって感覚は、条件なんてない。
何も排除する必要はない、むしろ排除なんてしてはいけない、実際に湧いてきているものなんだから。
感じることすら許されない、なんてことあるわけない。
感覚は自由だ。

それなら、制限なんて選ばない。
お金の概念なんて無く、何も気にせず選びたい。
世界中行きたい場所に行って、一番気にいるホテルに泊まって、住みたい場所に拠点を持って、食べたいものを食べて、着たいものを着て、たくさんの体験を人と分かち合って、エネルギーを使い切って死にたい。
パワーと自由を感じたい。

強い欲が本当はある。
湧き上がるエネルギーがある。

だけどそんな欲は隠すべきものだ、危険なんだから。
無意識にそう排除していた。

真実は、その欲を認めて豊かさが溢れ出たら、人と分かち合える。

価格帯なんて気にせず、自分が食べたい店に誘って、自分が誘ったんだから奢ればいいじゃん。
お金はパワーだ、お金を稼ぎ、使い、循環させることで、人にパワーを分かち合うことだって出来る。

自分から欲というパワーが湧き出るのを止めてしまうのは、人と分かち合える豊かさも止めてしまっているということだ。