インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

たっぷりある

「精神分裂症」や「THUNDERBOLT<稲妻>」のカードに引き続き、「ABUNDANCE<あふれ出る豊かさ>」のカードは根本的なことを示してくれた。

つまり、本質的なこと、自分の本音に抵抗して、封じ込めよう、隠そうと計算しているから、思考がうるさいし、集中も出来ないし、消耗もする。

わたしは強欲である。

それでいいのだ、もっと本当にそれを認めてしまって良いのだ。
無難に安全に、無害な価値観を装わなきゃいけない。そんな人目を気にしたこと、本当はしたくないでしょ?
素直に欲しいもの欲しいって言いたいでしょ?
分かち合えるくらいに、パワーに満ち溢れたいでしょ?

それを認めよう。降参しよう。

望む=行動しなければならない、結果を出さなければならない、じゃない。
望むことと行動して結果出すことを、セットで考えたら、過去が許した条件付きのものしか、望めないじゃないか。
過去のなかだけで生きたい?それで満足?
違うなら、あたらしく望むこと。

わたしがすべきことは、どうやって?は置いておいて、まず、決めることだ。
選ぶことだ、望むことだ、そして味わうことだ。
すでにあるこの豊かさを、パワーを!

湧いてくるこの欲望のエネルギー、既に豊かで力強いもの。

このメッセージを胸に、再びアシュラムへ。
この日はあと四つ、瞑想プログラムを受けた。

初めて行う瞑想は二種類。
声を使うチャクラ・サウンド・メディテーションと、沈黙して座するサイレント・シッティング。

チャクラ・サウンド・メディテーションは、第一ステージが45分と長い。チャクラの音程に合わせて、声を出す。
その後第二ステージは15分、サイレント。

誘導の音楽にあわせて、まず音を聞いて、第一チャクラを意識しながら、声を出してみる。
第二チャクラ、第三チャクラ、位置が上がるとともに、音程も上がっていく。
第七チャクラまで上がりきったら、また第六へと一つずつ、下がっていく。
これが三回繰り返される。

音程は変われど、一定の調子で声を出し続け、自分の内側の振動を感じ、周囲の振動にも包まれる。
どんどん無理なく、深く、大きく自分から音が引き出され、自分の豊かさとパワーを感じられた。

わたしはこの声を出す瞑想が、一番思考が湧かずに集中出来た。

声を出すこと自体が、感覚に集中しやすかったのももちろんある。
そして朝の、ゾルバの欲を認めようという気づき自体が良かったのだと思う。
前日に比べ、この後の瞑想は大抵よく集中できたから。

途中まったく思考が入らなかったわけじゃない。急に他所ごとに気が逸れることはもちろんあった。
つまりエネルギー漏れだ。集中したいことに全集中出来ず、漏らしてしまっている。
そんなときに、自分から湧いて来た声があった。

たっぷりある、すべてたっぷりある。
エネルギーもたっぷりある、少しの漏れなんて気にするなよ。
たっぷりあるんだから。

集中出来ていることが良いに決まってる、少しでもエネルギーを散らしていることは悪!
そんな神経質になっている心を笑うかのように、余裕たっぷりの声。
この大雑把な構え方、わたしに合っている。嬉しくなった。

余裕が生まれたら、またすぐ集中に戻りやすくなる。

チャクラ・サウンド・メディテーションのあとは、昨日に続き、広場でのダンス・セレブレーションに一人混ざりに行った。
プログラム内のダンスと違って、もっと気軽に楽しめる。

みんな内側に入って踊っているけど、今日は周りを感じてコミュニケーション取りながら踊ってみたいなあと思っていた。
目を合わせてコンタクトを取ってくれる人もいるけど、大抵は内側だ。

広場は昨日より人が多い。
しばらく踊って様子を見ていたら、団体で来ているらしいグループが、リードする一人を真似て踊る、という動きをしていた。
次第にそのグループじゃない人もそこに混ざり始めたので、わたしもちゃっかり加わって、リーダーを先頭にぐるっと一周くっついて回って面白かった。

お昼ごはんはリゾットを食べた。何となく辛くないと確信できる白っぽい食べ物を選んでしまう……

午後は、30分間のサイレント・シッティングからスタートした。
瞑想と言えば、このスタイルを思い浮かべる人がほとんどだと思う。
手順や誘導音楽も何もなく、ただ無音のなか沈黙して座るだけ。ザ・瞑想。

このサイレント・シッティングは一日三回行われており、ほとんどのプログラムが行われる黒いピラミッド型の建物・OSHOオーディトリアムではなく、チャンツーという美しい建物で行われた。

OSHOが生前過ごし、今も遺灰が納められている場所。
入り口にはロールスロイスが飾れている(OSHOといえばロールスロイスなのだ)。

チャンツーでは、白い大理石を保護するため、白い靴下を履くことが決まりだ。
わたしは自前の白靴下を持っていたけど、大抵の人は入り口で貸し出される靴下を利用していた。
OSHOオーディトリアムに比べると小さめの部屋で席に限りがあり、貸し出す靴下が無くなるとともに、入れる人数も終了。
わたしはギリギリ入れたけど、入れなかった仲間もいた。

大理石と鏡で出来た美しい空間、書籍が並ぶ場所、OSHOが座っていたらしい椅子がある場所を抜けて、瞑想する部屋へ。
中にはフカフカの柔らかいクッションの席が用意されていて座りやすかった。
開始の合図も何もない、ただ座る。

このサイレント瞑想は、クラクラして、夢うつつだった。

思考も当然湧いて来たけど、チャクラ・サウンドの時の“余裕たっぷり”と同じ。
思考を止めろ、なんて、誰も言ってないし、それが瞑想じゃない。ただ気づいているように、と言ってるだけだ。
だから思考が湧いて来て、思考に陥ったからといって、別に慌てることでも何でもない。
ただ観察するだけ。

そう思えたから、リラックスして呼吸していた。

ちょっと面白かったのは、当然そうだろうなあと思うけど、爆睡している人のイビキが響き渡っていたこと。序盤からずっと。

瞑想の手引きやオリエンテーションでも、サイレント瞑想では、咳やクシャミなど物音を立ててはいけない、出そうになったらそっと立ち去ること、自分を観察していれば事前に気づけるはずだから。というルールを説明されていた。
(なお一度退出したら再入場不可。外で瞑想を続けること)
我々真面目な日本人たちは、咳が出ちゃったらどうしよう、とややプレッシャーを感じたほどだ。

でも、咳やクシャミは意識があるかもしれないけど、寝ちゃったらもう自分では気づけないですしね……
無音の中、唯一の音イビキをただのソレ、ただの音として感じながら、ただ静かに呼吸していた。