インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

お金 2

さらにもう一つ、インドツアー出立前に、お金に関する大きな気づきがあった。

ゾルバの物質的な欲を堂々と認めていなかったとはいえ、薄々物欲が透けて見えていたわたしは、この旅でもし欲しいと思ったものが買えないとなったら絶対に嫌だ、後悔すると思った。

そんなわけで、普段貯蓄用として滅多に引き出すことのない口座から何十万か、現金と、カードに紐づいているいつも動いている口座とに、移動させた。
OSHOのアシュラムと空港にしか行かないし、食事代も含めすべて事前に込み込みでお支払いしているので、お金を使う予定など無いのに。

その瞬間、とてもゾワっとした。ザワザワと落ち着かなくなった。

お金を自分のなかで移動させただけだ、使う予定も無いのだ。
それなのに、貯蓄用の口座の数字が減ったことにものすごくザワついた。

繰り返すけど、移動させただけ。だから自分の手元に現金と、別口座にまるっとそのままの金額が増えているということだ。
それなのに、減った、減る、と感じた。
それは緊急アラートのようで、けたたましいサイレンが鳴り響き、赤いランプが点滅するのに似ていた。
危険です!危険です!減ってしまいます!

だから気づいた。

お金は交換券、エネルギー、移動すればするほど豊かさが増える、循環だ。

そんなことを言いながら、私は、奥の奥に、動くことのない安全な場所にお金を仕舞い込んで、絶対この奥から「出すまい!」と思っている。

世の中でお金と富が循環し、あわよくば自分の元に入って来ようものなら、すかさず懐の奥に仕舞い込んで、出すまい!と思っている。
出来るだけ、この安全な奥の部屋の数字を積み上げたがってる。

循環すれば豊かさが増える?循環させたい?
それはあくまで、自分の安心材料である貯蓄を満足行くまで確保してから、その余剰分で、不安にならない程度だったら出してもいい、そういうことでしょ?
だって貯蓄を増やしたがってる。いまある金額を絶対減らしたく無いと思ってる。
入ってきた金額より絶対少なくしか出したくない、だって多く出したら減るでしょ。
自分の懐に囲い込まで増やさないと安心できない、そう思っている。

全体性の視点なんて無い、自分の領域、自分の懐でだけ増えたか減ったか計算している、しかも物質ですらない、数字という記号だけで。

完全に、かの有名なケチババアだ!
銀行のATMコーナーから出て道を歩きながら、脳裏にOSHO禅タロットのケチババアの絵柄がくっきり浮かんで、愕然とした。

貯蓄を増やしたいなんて、一般的には文句のつけようの無い、むしろ推奨される当然の価値観かもしれない。
でも今のわたしの価値観の世界では、矛盾している。

これらの気づきを得たうえでも、雇用されて月々決まった固定額が入ってくる生き方を手放すということ、その枠を超えて金額を動かし循環させたいという欲求を認めることが、どうしてもできなかった。
理解するのと実行して体現することとの間にある段差がどれほど高いのか……
本当に観念パターンというのは根深い。
理解することと、体現することは、まったくイコールじゃない。
繰り返し、繰り返し、思い込みのパターンは浮き上がって浄化されていく。

そうして、インドツアーに突入した。
安定収入がある会社員という働き方への執着と変わることへの抵抗。
ゾルバの欲、小さく安全に欲を見せずに生きるなんて出来ない。湧き上がる欲を認めて受け入れて生きていきたい。
それにはっきり向き合うことになったインドツアー。

その総決算として、“このインド瞑想ツアーで受け取ったこと”で引いたのが、「けち」と「Thunderbolt<稲妻>」

本当に、ケチババアを卒業するときが来たのだ。生き方を変える時が来たのだ。

今はまだ怖い。
ゾルバの欲を認めて満たし、真に豊かさを分かち合って行ける生き方。
そこに向かって変わっていきたい熱望をどう進めていくのか。

どうやって実現するのか?それは考えない。
ただ今は決めるだけだ、変わることを受け入れよう、望みに向かって進んでいこう。

そう決めた翌朝。
インド滞在四日目。インド最後の朝。

この日は早朝のダイナミック瞑想だけ、再び受けた。
昼すぎには空港に向けて出発しなければならない。

二回目のダイナミック瞑想は感動的だった。

前日、一回目に受けた時にはとてもつらかった瞑想だ。
筋肉痛も疲労も身体に残っている。昨日以上に苦しいかもしれない、だけど不思議と気負いもなく落ち着いていた。
苦しかったら、それはその時。

鼻で素早く呼吸する第一ステージ、狂ったように爆発する第二ステージ、集中して入り込んで行った。

フー!フー!のマントラに合わせてジャンプし続ける第三ステージ。
ここからがまったく違っていた。

肉体は確かにどっしりしていて重さを伴う。
だけど今回はその重さを、“重荷”とは感じなかった。
確かに大変だ、苦しくもなる。
だけど、それすら含め、肉体を感じられることが歓びだ。

前回は苦しい、疲れた、いつまで続くのか?と騒ぐ思考を意志でねじ伏せたけど、今回は次第にフー!フー!の音に大きく包み込まれるように感じられて、途中から気持ち良くすらなった。
自分でジャンプを飛ばなくても、音と周囲の空間とたくさんの人たちと、その一体感で楽に飛ばしてもらえる感覚になった。
止めたいとは思わなかった、もっと続けられる、そう感じた。

ストップ!の声がかかってからの静止の第四ステージ。
第三ステージのジャンプでまっすぐ腕をあげたままでいることが出来たから、静止のときにも腕はまっすぐ上がっていた。
昨日の中途半端な位置より、まっすぐ伸ばしている方がずっと楽だったのだとわかった。

それでもジャンプのときより止まっていることは、やはり腕の重さを感じるし、苦しさもあった。
それでも同時に歓喜にも包まれた。
肉体があることが歓びなのだ。

肉体は煩わしい。食べなければならないし、排泄もするし、寒さ暑さに弱く、痛みを感じ、そして老いる。
制約があり過ぎる。
飢える肉体を生かすために、働いて、お金が必要で、苦しまなくてはならない。
肉体が無ければ、魂だけなら、自由なのに。
肉体が苦しみの原因だ。
肉体が問題を生み出している。

子どもの頃、まるで肉体が無い状態を知っているかのように、よくそう思っていた。

だけど肉体があるから、この鮮やかな、複雑な、豊かな、五感と感情を感じられる。
重みがあるからこそ感じられるものがある。

苦しみを怖がらなくていいんだ、そこには同時に歓びが存在している。
苦しみを感じることすら、歓びになる。

それは、このインド瞑想ツアーの感動的なフィナーレだった。

これから自分の真実に向かって変容していくなかで、恐怖や不安を感じることもあるだろう。
既に生き方を変えることを考えるだけで怖い。

だけど、その恐れや苦しみすら、同時に歓びがある。
この感覚を忘れず、ここから一歩ずつ進んでいこう。

歓喜に包まれたダイナミック瞑想を終え、そう胸に刻んだ。

そしてこの数時間後、本当のサンダーボルト<稲妻>がわたしを貫く。