インド旅行にまつわるエトセトラ

2024年1月はじめてのインド旅行前後のおはなし。

お金 2

さらにもう一つ、インドツアー出立前に、お金に関する大きな気づきがあった。

ゾルバの物質的な欲を堂々と認めていなかったとはいえ、薄々物欲が透けて見えていたわたしは、この旅でもし欲しいと思ったものが買えないとなったら絶対に嫌だ、後悔すると思った。

そんなわけで、普段貯蓄用として滅多に引き出すことのない口座から何十万か、現金と、カードに紐づいているいつも動いている口座とに、移動させた。
OSHOのアシュラムと空港にしか行かないし、食事代も含めすべて事前に込み込みでお支払いしているので、お金を使う予定など無いのに。

その瞬間、とてもゾワっとした。ザワザワと落ち着かなくなった。

お金を自分のなかで移動させただけだ、使う予定も無いのだ。
それなのに、貯蓄用の口座の数字が減ったことにものすごくザワついた。

繰り返すけど、移動させただけ。だから自分の手元に現金と、別口座にまるっとそのままの金額が増えているということだ。
それなのに、減った、減る、と感じた。
それは緊急アラートのようで、けたたましいサイレンが鳴り響き、赤いランプが点滅するのに似ていた。
危険です!危険です!減ってしまいます!

だから気づいた。

お金は交換券、エネルギー、移動すればするほど豊かさが増える、循環だ。

そんなことを言いながら、私は、奥の奥に、動くことのない安全な場所にお金を仕舞い込んで、絶対この奥から「出すまい!」と思っている。

世の中でお金と富が循環し、あわよくば自分の元に入って来ようものなら、すかさず懐の奥に仕舞い込んで、出すまい!と思っている。
出来るだけ、この安全な奥の部屋の数字を積み上げたがってる。

循環すれば豊かさが増える?循環させたい?
それはあくまで、自分の安心材料である貯蓄を満足行くまで確保してから、その余剰分で、不安にならない程度だったら出してもいい、そういうことでしょ?
だって貯蓄を増やしたがってる。いまある金額を絶対減らしたく無いと思ってる。
入ってきた金額より絶対少なくしか出したくない、だって多く出したら減るでしょ。
自分の懐に囲い込まで増やさないと安心できない、そう思っている。

全体性の視点なんて無い、自分の領域、自分の懐でだけ増えたか減ったか計算している、しかも物質ですらない、数字という記号だけで。

完全に、かの有名なケチババアだ!
銀行のATMコーナーから出て道を歩きながら、脳裏にOSHO禅タロットのケチババアの絵柄がくっきり浮かんで、愕然とした。

貯蓄を増やしたいなんて、一般的には文句のつけようの無い、むしろ推奨される当然の価値観かもしれない。
でも今のわたしの価値観の世界では、矛盾している。

これらの気づきを得たうえでも、雇用されて月々決まった固定額が入ってくる生き方を手放すということ、その枠を超えて金額を動かし循環させたいという欲求を認めることが、どうしてもできなかった。
理解するのと実行して体現することとの間にある段差がどれほど高いのか……
本当に観念パターンというのは根深い。
理解することと、体現することは、まったくイコールじゃない。
繰り返し、繰り返し、思い込みのパターンは浮き上がって浄化されていく。

そうして、インドツアーに突入した。
安定収入がある会社員という働き方への執着と変わることへの抵抗。
ゾルバの欲、小さく安全に欲を見せずに生きるなんて出来ない。湧き上がる欲を認めて受け入れて生きていきたい。
それにはっきり向き合うことになったインドツアー。

その総決算として、“このインド瞑想ツアーで受け取ったこと”で引いたのが、「けち」と「Thunderbolt<稲妻>」

本当に、ケチババアを卒業するときが来たのだ。生き方を変える時が来たのだ。

今はまだ怖い。
ゾルバの欲を認めて満たし、真に豊かさを分かち合って行ける生き方。
そこに向かって変わっていきたい熱望をどう進めていくのか。

どうやって実現するのか?それは考えない。
ただ今は決めるだけだ、変わることを受け入れよう、望みに向かって進んでいこう。

そう決めた翌朝。
インド滞在四日目。インド最後の朝。

この日は早朝のダイナミック瞑想だけ、再び受けた。
昼すぎには空港に向けて出発しなければならない。

二回目のダイナミック瞑想は感動的だった。

前日、一回目に受けた時にはとてもつらかった瞑想だ。
筋肉痛も疲労も身体に残っている。昨日以上に苦しいかもしれない、だけど不思議と気負いもなく落ち着いていた。
苦しかったら、それはその時。

鼻で素早く呼吸する第一ステージ、狂ったように爆発する第二ステージ、集中して入り込んで行った。

フー!フー!のマントラに合わせてジャンプし続ける第三ステージ。
ここからがまったく違っていた。

肉体は確かにどっしりしていて重さを伴う。
だけど今回はその重さを、“重荷”とは感じなかった。
確かに大変だ、苦しくもなる。
だけど、それすら含め、肉体を感じられることが歓びだ。

前回は苦しい、疲れた、いつまで続くのか?と騒ぐ思考を意志でねじ伏せたけど、今回は次第にフー!フー!の音に大きく包み込まれるように感じられて、途中から気持ち良くすらなった。
自分でジャンプを飛ばなくても、音と周囲の空間とたくさんの人たちと、その一体感で楽に飛ばしてもらえる感覚になった。
止めたいとは思わなかった、もっと続けられる、そう感じた。

ストップ!の声がかかってからの静止の第四ステージ。
第三ステージのジャンプでまっすぐ腕をあげたままでいることが出来たから、静止のときにも腕はまっすぐ上がっていた。
昨日の中途半端な位置より、まっすぐ伸ばしている方がずっと楽だったのだとわかった。

それでもジャンプのときより止まっていることは、やはり腕の重さを感じるし、苦しさもあった。
それでも同時に歓喜にも包まれた。
肉体があることが歓びなのだ。

肉体は煩わしい。食べなければならないし、排泄もするし、寒さ暑さに弱く、痛みを感じ、そして老いる。
制約があり過ぎる。
飢える肉体を生かすために、働いて、お金が必要で、苦しまなくてはならない。
肉体が無ければ、魂だけなら、自由なのに。
肉体が苦しみの原因だ。
肉体が問題を生み出している。

子どもの頃、まるで肉体が無い状態を知っているかのように、よくそう思っていた。

だけど肉体があるから、この鮮やかな、複雑な、豊かな、五感と感情を感じられる。
重みがあるからこそ感じられるものがある。

苦しみを怖がらなくていいんだ、そこには同時に歓びが存在している。
苦しみを感じることすら、歓びになる。

それは、このインド瞑想ツアーの感動的なフィナーレだった。

これから自分の真実に向かって変容していくなかで、恐怖や不安を感じることもあるだろう。
既に生き方を変えることを考えるだけで怖い。

だけど、その恐れや苦しみすら、同時に歓びがある。
この感覚を忘れず、ここから一歩ずつ進んでいこう。

歓喜に包まれたダイナミック瞑想を終え、そう胸に刻んだ。

そしてこの数時間後、本当のサンダーボルト<稲妻>がわたしを貫く。

 

お金 1

“このインド瞑想ツアーで受け取ったこと”で引いたカード。

「けち」と「Thunderbolt<稲妻>」

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二度目の「サンダーボルト」を引いてしまった。
前回はOSHO禅タロットで、今回は氣・龍神タロットのサンダーボルト。
しかし意味は同じ。
古いパターンの崩壊、破壊、大浄化。

安全へのしがみつき、執着、よほどそれを手放して変わりたいらしい。
否応なく、変わらざるを得ないらしい。

そして「けち」。
これはわたしたちの界隈では「ケチババア」として有名なカードだ。
お宝を仕舞い込んで溜め込み、要塞で守り、自分の持ち物に執着して手放さない老婆。
それは、生命の基本的な性質、広がること、分かち合うことを止めてしまう。
仕舞い込まれた宝は使われることも分かち合われることもなく、色褪せて価値を失っていく。
使われないなら、無いのと同じでしょ?
それどころか、きっと腐臭までし出す。

このケチババアに関しては、思い当たりがありすぎるほどある。

実はこのインド瞑想ツアーに申し込む前後、やたらお金に関する気づきが多かった。

そもそもこのインドツアーだって、何十万とまとまった金額はかかる。
そこはブレイクスルーの衝動で参加すると決意した時点で、勢いで乗り越えていた。

インドツアー参加を決めた数日後、とある商品を買うか買わまいか、迷う出来事があった。
それはそれなりに高くはあるけど、欲しければ買える金額だ。
そして尊敬する人のお勧めで、普段自分では選ばないものだけど、だからこそ自分のために買ってみたい、と理屈では考えていた。

だけど、気持ちがためらう。
なんでこんなに抵抗が出るんだろう?チグハグだ。

頭の思考がダミーで、気持ちと身体に従うべき、というのがセオリーだけど、そのとき考えていた理屈は、感覚が世界をつくるメカニズムの理屈だ。

自分の狭い選択を超えて、感覚を広げるために買ってみたい。
新しい体験のため、それに、見るたびにきっと特別なストーリーを思い出す。
ただの物質じゃない、わたしは感覚を広げ、感覚を思い出す体験のために、自分にプレゼントしたい。

と、メカニズムを踏まえて考えているのに、それに反して何かが強く抵抗している。

結局、この時は自分が信じるメカニズムを信じて、買うことを選択した。

その場に一緒にいた友だちによると、悩むと言いながら、わたしは自分からわざわざ売り込まれに行ったり、買わざるを得なくなるよう積極的な行動を取っていたらしい。
身体は正直だ。

その時、友だちと話し合って、わかったことが二つある。

一つ、私は人から勧められたことに従うということに、強い警戒と反発があるということ。

勧められるがままに従っていたら、どんどん消耗する。
特にそれがお金を使うことであればどんどん減ってしまう、奪われてしまう、という感覚。

つまり私は、好意を持っている人、悪く思われたく無い人、そういう人のお勧めに太刀打ち出来ない弱い人間だと、自分で自分を捉えている。
実際に痛い経験がある。

だからこそ、頭に侵入される不快さがあって、逆に警戒を強め、反発する。

これはこの一年半、内観をしてきたので、少なくとも理屈ではすぐに自分の嫌らしさがわかった。

頭の中に侵入して来ないで!侵略される!
そんな危機感は、自分が侵入を許しているのだし、むしろ、嫌われないように、オコボレのメリットを相手から得ようとしているだけのこと。
いつだってすべての人が加害者であり、被害者なんていない。
私は奪う側なのだ。下手に出て、うまみをもらおうとジットリ狙っている。
それを隠すために、やめて!入って来ないで!とわざとらしく騒いでるだけだ。

お金が絡むと、お金を理由にしやすいから、こういった本当の抵抗を見ないで終わりやすい。
お金以外にも、ピンと来てない、自分の趣味じゃない、などの目眩しも言いがち。

もし百万円あったら、それを買う?(対象によっては一千万や一億などの充分な金額)
この質問は、お金の抵抗なのか、それ以外の抵抗なのかを見分けるのに役立つ。
充分なお金があっても、買う!と即答出来ないなら、何か別の抵抗がある。

この時わかったことの二つ目は、とても重要なことだ。

お金の価値は、体験、つまり、感覚にあるということ。
お金はエネルギーだ、という言い方をされるのもそういうことだ。

お金はそのまま眠っていても意味ない。お金は交換券なんだから。
そして交換されるのは、物質か?現象か?

それはもちろん。
お金と引き換えに、服、靴、アクセサリー、食べ物、旅客機での移動、住む場所、アート作品、情報、などなど。
あらゆる物質や現象のサービスも、ちゃんと得られる。

だけど、本質的には、それにくっついてくる体験、感覚がすべてだ!
それと交換している、それを得ている、それが欲しい。それだけ。
物質や現実のサービスが本体じゃない、本体は体験だ、感覚だ!
物質はおまけにすぎない。
考えてみれば当然すぎる当然の事実。

そのワンピース、そのコーヒー、その映画。
物質も現象サービスを受け取ったうえで、それにプラスして、どれだけ体験してると思う?
どんな感覚を得ている?

いつもとはちょっと違うワンピースを購入するドキドキ。
新しい装いの自分に出会った歓び。
自分にプレゼント出来た誇らしさ。
いつもと違う気分でお出かけする楽しみ。
ブランドに込められたストーリーを纏うこと。
そこから生まれる、ありとあらゆる体験。

友だちとの会話、スタイリングの試行錯誤。服につられていつもと違う行動、感情、体験が生まれる。

どう考えても、物質そのものより、体験と感覚のほうが、何倍も何十倍も何万倍も、でっかい。
いつだって、あらゆるものがお値段以上!間違いない、断言する。

実際わたしは、悩みながらも買った商品で、こんな重要なことを深く理解する体験まで得ている。
どれだけ価値ある体験なのか!

インド瞑想ツアーだって何十万もかかっているわけだけど、実際に飛行機に乗せてもらって、ホテルに泊まって、食事をして、世界的瞑想センターでプログラムを受けて……
その物質と現象サービスにプラスして、どれだけ受け取ってると思う?

五連休を自分のために取得するというチャレンジの興奮、自分への尊厳の高まり、そしてずっとやりたくてやれなかった文章表現を表立ってやるという決意と実行。
自分の人生と命を使ってやってみたい、やらずに死にたく無いとすら思っているのに、怖くて出来ないとほざいていたことを、実行すると決意したのだ。

旅行に行く前で、既にこれ。これだけでも何十万じゃ到底足りない。

しかも、お金は交換券だ。それは双方向ってことだ。

わたしに体験と感覚が生まれているように、わたしに服や靴や食事や旅行を提供してくれる側にも、体験と感覚が生まれている。
つまり二倍!

それに影響の波紋は双方向どころじゃない。
例えば、このインド旅行記を読んでくれた誰かに多少なりとも影響がつながっていく。
それだって体験と感覚を生み出している。影響の連鎖はキリがない。

そして、お金という交換券自体は交換されても消えない。
わたしに服や靴や食事や旅行を提供してくれた人の手もとに移動しただけ。
感謝すべきその人が、また何らかの体験と感覚を生み出すために交換を発動する。

そうやって循環していくだけ。
移動すればするほど、全体の富と豊かさは際限なく増えていく。

 

テンプラ on スイカ

この日受けた後二つの瞑想は、昨日も受けたナーダブラーマ瞑想と、クンダリーニ瞑想。

ハミングと手の動きを使うナーダブラーマ瞑想では、相変わらず手が勝手に動く!
これは本当に面白い。

二回目のクンダリーニ瞑想は、とても気持ち良く出来た。

昨日の一回目では、自分の不自然な作為に気づいたから、今回は力んで派手にやろうとする気持ちを捨てた。
第一ステージの揺らすパートでも、第二ステージのダンスでも、身体に委ねるように意識した。

第三と第四のサイレントのステージが、思考まみれで気が散っていた前回と異なり、今回はとても意識がクリア。

身体を流れる血流、熱、汗、はっきり感じる。
同時に呼吸で空気が肺に出入りし、リラックスが身体に広がっていく。
身体の感覚が気持ち良い。

呼吸して身体の気持ち良さを感じていたら、ふと思い浮かんだ。

第一ステージ、第二ステージで、揺らし動かした、動のエネルギー。地から湧き上がる熱、肉体に流れる熱い血流。
この情熱に似た、動のエネルギーの渦<ボルテックス>。

そこに、第三ステージ、第四ステージの静寂の中、リラックスした呼吸で、すべてを受容する静のエネルギー<ウェルビーイング>が混ざり合っていく。

情熱のボルテックスは、エゴイズム<自我>の執着とは言わなくても、エゴセルフ<自己>の好み、意志、方向性はハッキリあるはずだ。
それは、アツアツのエネルギーだ。
噴き出るアツアツの源泉だ。

そこに静かな呼吸が、なんでもいいよ、AでもBでもなんだろうとすべてOK、すべて受容するウェルビーイングの大河を運んでくる。
きっとそれは温く、まったく刺激を感じない温度のはずだ。
熱くなっているときには、クールダウン出来る温度。

きっとそれが混ざり合って、ちょうど良い湯加減になるに違いない。
源泉アツアツ90度なんかを浴びたら大火傷だから、温くホッとできるウェルビーイングが基本で納得だ。

いつもの雑念とちょっと違う、そんな思考が湧いて来た。

そしてわたしは熱めが好きだということ!

安心安全の温さだけじゃ物足りない、本当はかなり熱めにお湯を混ぜていたい。
こんなにグツグツ沸いてる欲望のエネルギーを感じるんだから。

そんな思考を楽しんだ後、それも手離して、寝転がった背中に冷たい大理石を感じながら、呼吸していた。

昨夜はこのクンダリーニ瞑想のあとに、OSHOの講和を含むイブニング・ミーティングに参加したのだが、この日は早くもインドで過ごす最後の夜。
イブニング・ミーティングはスキップして、リッツ・カールトンの日本食レストランにディナーに行くことになった!

とってもゾルバ。

到着したリッツの門構えは、コンラッドより更に立派。
ロビーでレストランに案内されるのを待ちながら、ラグジュアリーな空間と気分を楽しむ。


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日本食レストランUKIYOも、ムーディで素敵な空間だった。
テラス席もとても素敵だったけど、蚊がいるということで断念、屋内の席にした。

そして肝心のお料理。
予想はしていたけど、面白い!明らかに和食風であって、和食ではない。

わたしはアボカドロールが好きなので、サムライロールという、これぞSUSHIといったコテコテメニューと、ソフトシェルクラブの天ぷらを頼んだ。
この◯◯ロールはたくさん種類があった。
殻ごと食べられるソフトシェルクラブは元々好きなので、見かけるとよく注文しがち。
とはいえ、今回の決め手はなんと言っても、天ぷらをスイカの上に乗せるという斬新な盛り付け!
これは頼まずにいられなかった。写真を何回も確認したし、説明にWater melonて書いてあった。

アテンドの方に辛くないかも確認してもらった。インド標準の辛さはわたしには厳しい。
辛くない大丈夫!という回答だったが、天ぷらはスイカの上に乗っているのでちょっと冷めるがOKか?と、レストランスタッフがとても細やかな配慮で尋ねてくれた。
OKだけど、謎は深まるばかり……

異国情緒溢れる日本食という面白さに、ワイワイ言いながら注文も楽しんだ。


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実際のお味も、やっぱり異国情緒溢れていた。
思ってたのと違う。

サーモンの定番ロールが何故か不思議な味に仕上がっている。
確かにメニューをよく見ると、ゆず味噌とかトリュフとか書いてあった。そもそもアボカドとも書いてない勘違い。

ソフトシェルクラブの天ぷら自体は美味しかった!日本の天ぷらとは違うかもしれないけど、しっかりした味付けで一番美味しかったかもしれない。なお、ちゃんと温かかった。
スイカは不思議な味付けがされていた……

それぞれで注文しつつも、シェアしあったので、いろんな味を楽しめた。
お好み焼きが、絶対お好み焼きじゃなくて別物なんだけど、不思議と新しい料理として美味しかった。

リッツにあるレストランなので、当然それなりに高い。
わたしは今回の旅行中、お金はいくらかかっても気にしないことに決めていたし、朝ゾルバを認めると決めたばかり。
でも一緒に来ているメンバーはどうなのかな?と少し頭をよぎった。
私のこれまでのパターンじゃ、相手の金銭感覚がわからないなかで誘うにはためらう価格帯のレストランだから。

そうしたら、朝のセッション時に「価格帯なんて気にせず自分が行きたい店に誘って、友だちの分も奢ってあげればいいよ」というアドバイスをくれたご本人、ツアー主催者の旦那さまが!
全員分奢ってくれた。

急遽みんなでリッツに和食食べに行こうって誘ったのは自分たちだから、って。

うーん、実践を見た!
こういうマインドでいたい。
お金あるから出来る、っていうわけじゃないから。お金あっても、ケチなら出来ないから。
豊かさの感覚を、豊かさの意味を、受け取っていなかったら出来ないから。

そんなインド最後の夜、“このインド瞑想ツアーで受け取ったこと”として、主催者の女性が、全員それぞれにカードを引いてくれた。

わたしのカードは……
「けち」と「Thunderbolt<稲妻>」……

 

 

たっぷりある

「精神分裂症」や「THUNDERBOLT<稲妻>」のカードに引き続き、「ABUNDANCE<あふれ出る豊かさ>」のカードは根本的なことを示してくれた。

つまり、本質的なこと、自分の本音に抵抗して、封じ込めよう、隠そうと計算しているから、思考がうるさいし、集中も出来ないし、消耗もする。

わたしは強欲である。

それでいいのだ、もっと本当にそれを認めてしまって良いのだ。
無難に安全に、無害な価値観を装わなきゃいけない。そんな人目を気にしたこと、本当はしたくないでしょ?
素直に欲しいもの欲しいって言いたいでしょ?
分かち合えるくらいに、パワーに満ち溢れたいでしょ?

それを認めよう。降参しよう。

望む=行動しなければならない、結果を出さなければならない、じゃない。
望むことと行動して結果出すことを、セットで考えたら、過去が許した条件付きのものしか、望めないじゃないか。
過去のなかだけで生きたい?それで満足?
違うなら、あたらしく望むこと。

わたしがすべきことは、どうやって?は置いておいて、まず、決めることだ。
選ぶことだ、望むことだ、そして味わうことだ。
すでにあるこの豊かさを、パワーを!

湧いてくるこの欲望のエネルギー、既に豊かで力強いもの。

このメッセージを胸に、再びアシュラムへ。
この日はあと四つ、瞑想プログラムを受けた。

初めて行う瞑想は二種類。
声を使うチャクラ・サウンド・メディテーションと、沈黙して座するサイレント・シッティング。

チャクラ・サウンド・メディテーションは、第一ステージが45分と長い。チャクラの音程に合わせて、声を出す。
その後第二ステージは15分、サイレント。

誘導の音楽にあわせて、まず音を聞いて、第一チャクラを意識しながら、声を出してみる。
第二チャクラ、第三チャクラ、位置が上がるとともに、音程も上がっていく。
第七チャクラまで上がりきったら、また第六へと一つずつ、下がっていく。
これが三回繰り返される。

音程は変われど、一定の調子で声を出し続け、自分の内側の振動を感じ、周囲の振動にも包まれる。
どんどん無理なく、深く、大きく自分から音が引き出され、自分の豊かさとパワーを感じられた。

わたしはこの声を出す瞑想が、一番思考が湧かずに集中出来た。

声を出すこと自体が、感覚に集中しやすかったのももちろんある。
そして朝の、ゾルバの欲を認めようという気づき自体が良かったのだと思う。
前日に比べ、この後の瞑想は大抵よく集中できたから。

途中まったく思考が入らなかったわけじゃない。急に他所ごとに気が逸れることはもちろんあった。
つまりエネルギー漏れだ。集中したいことに全集中出来ず、漏らしてしまっている。
そんなときに、自分から湧いて来た声があった。

たっぷりある、すべてたっぷりある。
エネルギーもたっぷりある、少しの漏れなんて気にするなよ。
たっぷりあるんだから。

集中出来ていることが良いに決まってる、少しでもエネルギーを散らしていることは悪!
そんな神経質になっている心を笑うかのように、余裕たっぷりの声。
この大雑把な構え方、わたしに合っている。嬉しくなった。

余裕が生まれたら、またすぐ集中に戻りやすくなる。

チャクラ・サウンド・メディテーションのあとは、昨日に続き、広場でのダンス・セレブレーションに一人混ざりに行った。
プログラム内のダンスと違って、もっと気軽に楽しめる。

みんな内側に入って踊っているけど、今日は周りを感じてコミュニケーション取りながら踊ってみたいなあと思っていた。
目を合わせてコンタクトを取ってくれる人もいるけど、大抵は内側だ。

広場は昨日より人が多い。
しばらく踊って様子を見ていたら、団体で来ているらしいグループが、リードする一人を真似て踊る、という動きをしていた。
次第にそのグループじゃない人もそこに混ざり始めたので、わたしもちゃっかり加わって、リーダーを先頭にぐるっと一周くっついて回って面白かった。

お昼ごはんはリゾットを食べた。何となく辛くないと確信できる白っぽい食べ物を選んでしまう……

午後は、30分間のサイレント・シッティングからスタートした。
瞑想と言えば、このスタイルを思い浮かべる人がほとんどだと思う。
手順や誘導音楽も何もなく、ただ無音のなか沈黙して座るだけ。ザ・瞑想。

このサイレント・シッティングは一日三回行われており、ほとんどのプログラムが行われる黒いピラミッド型の建物・OSHOオーディトリアムではなく、チャンツーという美しい建物で行われた。

OSHOが生前過ごし、今も遺灰が納められている場所。
入り口にはロールスロイスが飾れている(OSHOといえばロールスロイスなのだ)。

チャンツーでは、白い大理石を保護するため、白い靴下を履くことが決まりだ。
わたしは自前の白靴下を持っていたけど、大抵の人は入り口で貸し出される靴下を利用していた。
OSHOオーディトリアムに比べると小さめの部屋で席に限りがあり、貸し出す靴下が無くなるとともに、入れる人数も終了。
わたしはギリギリ入れたけど、入れなかった仲間もいた。

大理石と鏡で出来た美しい空間、書籍が並ぶ場所、OSHOが座っていたらしい椅子がある場所を抜けて、瞑想する部屋へ。
中にはフカフカの柔らかいクッションの席が用意されていて座りやすかった。
開始の合図も何もない、ただ座る。

このサイレント瞑想は、クラクラして、夢うつつだった。

思考も当然湧いて来たけど、チャクラ・サウンドの時の“余裕たっぷり”と同じ。
思考を止めろ、なんて、誰も言ってないし、それが瞑想じゃない。ただ気づいているように、と言ってるだけだ。
だから思考が湧いて来て、思考に陥ったからといって、別に慌てることでも何でもない。
ただ観察するだけ。

そう思えたから、リラックスして呼吸していた。

ちょっと面白かったのは、当然そうだろうなあと思うけど、爆睡している人のイビキが響き渡っていたこと。序盤からずっと。

瞑想の手引きやオリエンテーションでも、サイレント瞑想では、咳やクシャミなど物音を立ててはいけない、出そうになったらそっと立ち去ること、自分を観察していれば事前に気づけるはずだから。というルールを説明されていた。
(なお一度退出したら再入場不可。外で瞑想を続けること)
我々真面目な日本人たちは、咳が出ちゃったらどうしよう、とややプレッシャーを感じたほどだ。

でも、咳やクシャミは意識があるかもしれないけど、寝ちゃったらもう自分では気づけないですしね……
無音の中、唯一の音イビキをただのソレ、ただの音として感じながら、ただ静かに呼吸していた。

 

ダイナミック瞑想のあと、朝食を摂りに一度ホテルに戻った。
昨日と同じく、美味しい大満足ビュッフェ。朝から激しく動いたから、もりもり食べる。

次は十一時のプログラムに間に合うよう向かう予定だから、少し時間がある。
わたしは食べ終わったらすぐ部屋に戻ってシャワーを浴びることにした。

ダイナミック瞑想で汗だくになったから、というのもあるけど、まさかの鳥のフンがわたしの頭に直撃したのだ!
ダイナミック瞑想に向かう前、アシュラムの門前で。

その時はとにかく拭き取って、アルコールスプレーも髪に直接振りかけた。
実は前夜、眠さが勝って頭も洗わずシャワーで汗だけ流して寝てたので、強制的に頭洗えというメッセージなのかもしれない……

現地のインド人アテンドさんには「運が付きます!」と励まされた。
日本語の精通具合にびっくり。

というわけで、部屋でしっかり頭を洗っていたら、ルームメイトの一人が慌てた様子でやって来た。

話を聞くと、朝食後、そのまま主催者の女性によるタロットカードセッションが始まったらしい。
そして彼女は「裏切り」のカードが出て、その場で諸々内観して話し合った結果、わたしにモバイルWi-Fiを貸して欲しい、とお願いしに来たようだ。
内観で気づいた彼女のチャレンジのためにモバイルWi-Fiが必要だし、そもそもわたしにお願いすること自体も一種チャレンジだったらしい。

こんなふうに、ツアー中に気づいたことは即実践に移された。

この要所要所で挟んでくれたカードセッションが、このインド瞑想ツアーを、非常に得難いものにしていた。

三泊五日という短い期間、アシュラムでプログラムを受けるのは実質二日。
驚かれる短さだけど、濃密に過ごした。

一人でどれほど意識的になろうとしていても、恐らく限界がある。
OSHOのアシュラムという場のエネルギー、瞑想プログラムも、本当に素晴らしくて強力だ。
ただ、それを受け取るわたしたちの集中力、コミット。
それが途切れず続いたのは、無意識のメッセージを示すカードをきっかけにして、気づきに意識的になることを忘れなかったからだ。

この短い期間でも、隙あらば気が緩もうとする。
良い意味のリラックスということではなく、意識的であることを忘れる、という意味で。

カードを引いて、無意識領域に切り込むことで、意識的になることを忘れさせなかった。
それはきっと、仲良しのお友達、または希薄な表面上の関係では出来なかったことだ。

互いを信頼し、自分を信頼し、カードを信頼し、明晰であること、思い込みを超えていくこと、それを求める同志であること。
全員がその姿勢を持っていたし、そして何より、指導者として覚悟を持ってリードしてくれた主催者の女性の存在が大きかった。

自分自身のセッション内容はもちろん、他のメンバーのセッションを聞いていても非常に気づきが多かった。
目の前で交わされる会話は、偶然ではない。

セッション以外の場でも、それぞれの気づきを話し、聞くことで、自分一人では得られなかったたくさんの体験を感じられた。
それぞれの人生で感じたことの深く柔らかい部分。
なんて尊いんだろう。

頭を洗ってサッパリしたところで、再び朝食会場に降りて、カードセッションにわたしも混ぜてもらった。

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わたしが引いたカードは「ABUNDANCE<あふれ出る豊かさ>」と「The Magician<魔術師>」

アバンダンスは、物質的な豊かさ、精神的な豊かさ、そして男性性のエネルギーも女性性のエネルギーも統合した、真に豊かな全体的な人間。
ゾルバ・ザ・ブッダの豊かさを表すカード。

魔術師は、言葉、コミュニケーションを使って行動していく男性性のエネルギーのカード。

もしかして、物質的な豊かさを制限しているんじゃない?
ブッダは満たしている気がするけど、ゾルバの欲を満たしていないような気がする。

その問いかけに、盛大に頷いた。

薄々気づいていた。少しずつ認めようともしていた。

あえて質素にしているよね?
そう言われて、振り返ってみれば、確かにそうだった。

本当は贅沢が好きなことには気づいていた。
細かいこと気にせず湯水のようにお金を使いたい。気をつけてないと使ってしまう。
たいてい一番贅沢な選択肢に心惹かれる。

一方で矛盾しているけど、突出することは好感度を下げるし、危険があると思っていた。
つまり、周囲から反感を買わない生活レベル、周囲から心配されない良識あるお金の使い方、それが大切でしょ?
友だちや家族、特にお金の話はデリケートなんだから、刺激したくない。
人からどう見えるか、“堅実”に見えるよう、妙に計算していた。

例えば、誰かと食事に行くとき。相手の金銭感覚が気になって、価格帯を慎重に探るし、低めに提示する。
または相手に任せて、自分の意見は曖昧に濁す。
お金のことで気まずい思いをしたくないから。

服や装いも、高いものは身につけるべきじゃない。周囲から浮いたり、驚かれたりしないようにね。安全無難第一。

そもそも実際に薄給というべきか、固定額からやり繰りすべき身の上なんだから、高いものなんて買うべきでもない。
身の丈に合った生活をするんだよ。
それはもう耳にタコが出来るほど言い聞かされて来た言葉。

だけど、何も関係なかったら?

過去をすべて置いて、今この瞬間、あたらしく望んで良いなら?
人目や現実の条件をいったん置いて、純粋にただただ、どうが良いのか、自分の望みを見てあげるなら?

だって感覚は、条件なんてない。
何も排除する必要はない、むしろ排除なんてしてはいけない、実際に湧いてきているものなんだから。
感じることすら許されない、なんてことあるわけない。
感覚は自由だ。

それなら、制限なんて選ばない。
お金の概念なんて無く、何も気にせず選びたい。
世界中行きたい場所に行って、一番気にいるホテルに泊まって、住みたい場所に拠点を持って、食べたいものを食べて、着たいものを着て、たくさんの体験を人と分かち合って、エネルギーを使い切って死にたい。
パワーと自由を感じたい。

強い欲が本当はある。
湧き上がるエネルギーがある。

だけどそんな欲は隠すべきものだ、危険なんだから。
無意識にそう排除していた。

真実は、その欲を認めて豊かさが溢れ出たら、人と分かち合える。

価格帯なんて気にせず、自分が食べたい店に誘って、自分が誘ったんだから奢ればいいじゃん。
お金はパワーだ、お金を稼ぎ、使い、循環させることで、人にパワーを分かち合うことだって出来る。

自分から欲というパワーが湧き出るのを止めてしまうのは、人と分かち合える豊かさも止めてしまっているということだ。

 

 

苦行

インド滞在三日目、OSHOアシュラム二日目。

この日は、早朝六時からのダイナミック瞑想に参加すべく、朝五時起き。
寝たのは遅かったけど、すんなり起きることが出来た、身体は日本仕様だから。

ダイナミック瞑想はもはや名物、というのもおかしいか、とにかく代表的なプログラムのようだ。

インドツアー出立前にOSHOのことを知っている人からも、アシュラムに来て声をかけてくれた日本人の方々からも、絶対に受けたほうが良い!とお勧めされた。

瞑想の手引きで手順を確認しただけで、かなりハードなことは予測がつく。

まず第一ステージは10分間、フンフンと、とにかく激しく鼻から息を吐いて呼吸する。リズムはつけず、とにかくすべてを燃やし尽くすように、激しく深く速く呼吸する。
身体が動くようなら動くに任せる。

第二ステージは、内側にあるものを爆発させる。大声で叫び、泣き、笑い、飛び跳ね、蹴り、意識的に第一級の狂人となる。
これも10分間。狂い続け叫び続ける。

第三ステージは、両手をまっすぐ高く上げて、フー!フー!フー!というマントラを唱えながら、その場でジャンプし続ける。
これも10分間。ひたすらジャンプし続ける。

第四ステージは、15分。
ストップ!という声がかかったら、ジャンプを止め、その時どんな姿勢をとっていようとも、凍ったようにそのまま、静止しなければならない。
姿勢を直したり、動いたり、咳をしたり、少しでも微動だにすれば、これまでの努力が台無し!
絶対にそのまま、ストップ!
ただ沈黙のなか、観察をする。

第五ステージ。音楽が流れ始めたら、祝いのダンスだ!感じるまま、踊って良い。
これが15分。

という具合だ。

おわかりいただけるだろうか。
肉体的にキツイ。

普段から負荷のかかるトレーニングに慣れてる人には、もしかしたら大したことがないのかもしれないけど、わたしは途中、あれ?これはマラソンだっかな?と思った。
終わらない感覚が似ていた。

まず第一ステージでかなりクラクラしてくる。
手を抜きたくなってくるけど、すべてを燃やし尽くす気持ちで、身体も揺らして、フンフンし続けた。

狂人の第二ステージ。これがとても特徴的かもしれない。
前日のうちにツアー主催者の女性から、ダイナミック瞑想のこのパートについて注意事項があった。
周囲がネガティヴな感情エネルギーを含め盛大に放出するから、私たちも始めはワザとでも良いから、とにかく思い切り放出すること。そうでないと受け取ってしまうから。

いきなり叫んで泣いて、怒りや悲しみ、笑い、何でもいいから出るに任せてブチ撒けろ。
そう言われても、初めてだと困惑するかもしれない。
わたしはこういう叫んだりする感情解放ワークは何度か体験済みだったので、一発目に思い切り雄叫びをあげた。

ピラミッド型の空間が、四方八方、叫び声に満ちて震える。自分の声すらよく聞こえない。
ダイナミック瞑想はアイマスクをすると良いということだったが、この日は忘れてしまったので、目を閉じた暗闇のなかで暴れた。

全員が自分の爆発に狂っている。
人目などまったく気にならない。

どんなにグロテスクでもいい、湧いてくる怒り、名前のわからない感情、口汚ない言葉、言葉にならない音、舌を突き出し、身体を掻きむしり、力の限り暴れ、狂い倒す。

まだまだ足りない、もっと深く、もっともっと地の底から、封印された過去世から、ぜんぶぜんぶこじ開けてブチ撒けたい!
地獄の蓋をあけろ!取り返しがつかなくてもいい、信頼して、すべて出るものは出して浄化する!
そのためにわたしはここにいる。

そんな気持ちで全力を尽くした。

からの、第三ステージ。

両手をまっすぐ上にあげて、ひたすら、フー!フー!フー!にあわせて、こまかくジャンプ。

第二ステージで出し切っているから、思考働かず、ただひたすらジャンプして観察していたわけだが、途中である意味正気に戻ってくる。

まだ終わらないの?
10分、長い!

オーディトリアムの冷たく硬い大理石の上で、足の裏とふくらはぎが「つらいよ!」「休みたいんですけど」と訴えている。
でも止まるなんて有り得ない。わたしはそれを選ばない。

一瞬一瞬を積み重ねていくしかない。
先を考えることはやめて、今この瞬間、この肉体の感覚、疲労や痛みや苦しさすら、集中して感じていくだけだ。

手加減したくなる、続けられなくなるくらいなら、休みながらやったほうがいいんじゃない?
そんな囁き声も聞こえるけど、わたしはエネルギーを出し切って生きたいのだ、苦しみも味わい切るのだ。
そう思い、なんとか一瞬だけに集中してジャンプを続けた。

物事は永遠には続かない、ちゃんと終わりが来る。

ストップ!のかけ声。

ここからが本当の忍耐の試練だった。

ヘロヘロのジャンプで腕の高さは元から中途半端になってしまっていただろう。
とにかくそのままの状態で、絶対に、微動だにせず、静止しなければならない。

いや、このまま15分?
いやいやいや。と私の中の思考は序盤から恐れ慄いていた。

しかし、少しでも動けば台無し!というメッセージを胸に、とにかく呼吸と身体感覚に集中していた。
無音の中、強く深く繰り返される呼吸、心臓の鼓動、身体を流れる汗、脚の緊張、ビリビリ身体中に走る感覚。

そして腕が重い。重すぎる。

その重さすら、ただのソレとして観察して、一瞬を積み重ねるべく集中した。
ただひたすら。

自分では微動だにしていないつもりだ。

だけどふと気づく。目を閉じているから見えないけど、感覚的に、少し腕の位置が下がってきている?
そうかもしれない、仕方ない。
だけど少しも楽にならない、むしろどんどん重くなる。
さすがに重すぎる。
つらい、苦しい。

それもただ感じる、呼吸しながら観察する。
一瞬に集中する以外、乗り切りようがない。

本当に長い15分だった。

やがて、救いのようにしずかに音楽が流れ始めた。

セレブレーション・ダンスだ!

心から、本当に心から、歓迎した。
手を下ろす前に、目を開けて、腕がどこまで下がっていたか、確認した。
ほとんど真横にまで腕は下がっていた。
むしろ真横より下だ。

自分では微動だに動かさないよう努力していたのに、ここまで位置が下がっていたことに、驚いたし少しがっかりした。

しかし、わたしは出来る限りやった。
身体を自由に動かせるとは、なんて素晴らしいんだろう。
なんて歓びだろう。

最後のダンスのステージは、素直に歓びのまま踊った。

 

 

You live in the past !

クンダリーニ瞑想で汗だくになった後(その上大理石に寝転んで冷えている)、次のイブニング・ミーティングまでは少し時間がある。

その間にシャワーを浴びて清潔にして、ホワイトローブに着替えて、またOSHOオーディトリアムに集合する。
このイブニング・ミーティングは盛りだくさんで手順も少し複雑だ。

はじめはダンスから始まり、ダンスの途中にOSHO!と叫ぶタイミングが数度ある。
クンダリーニで気づいた自分の作為を手放すため、ダンスは力まず、自然体でいようとした。

ダンスの後は、沈黙して座り、OSHOの講和ビデオが始まる。
重要なのは話している内容ではないらしく、思考を鎮めるための方便だという。実際、英語の講和はわたしにはほぼ分からないので、無理に理解しようとすることをやめた。
OSHOが存命の頃はきっと直接講和を聞いたのだろう。

講和ビデオの後は、ジベリッシュという訳の分からない言葉のような音をまくしたて、ドラムの音でストップしたあと、ばたりと倒れる。
というような内容だったと思う。

正直いって、OSHOの講和ビデオの最中は眠かった。
昼間から散々動き回って、身体も疲れている。
わからない英語をただの音として聴きながら、朦朧としてくる。

朝のオリエンテーションでこのイブニング・ミーティングのことも軽く説明を受けていた。
OSHOは講和の中でたびたびジョークを飛ばすので、そこは笑うところだと。
多分この「OSHOのジョークで笑うように」と言うこと自体が、オリエンテーション・ジョークのようだった。

このジョークによる笑いが起こったときに、ハッと目が覚めたりする。

ジョーク以外で、急に目が覚めてきたタイミングが一度だけあった。
正確には覚えていないけど、あのOSHOの強い目力と言葉で、ある一言が突き刺さった。

You live in the past !

もしかしたらtheyだったかもしれないし、まったくの勘違いかもしれない。
だけど、とあるせぇるすまんにドーーーンと指をさされたかのように、そう聞こえた。

その通り。

過去の記憶によるパターン、過去から出来た習慣で私は生きている。
過去を材料にして、未来を心配し、計算・計算・計算しているだけ。

今この瞬間、現在になんて生きていないのだ。

何か抵抗があるとか、トラウマがあるとか、個別の要因もあるかもしれないけど、そんな深い話じゃない。

単純に習慣なのだ。

気づいていなかったのだ。
今を生きているつもりで、過去を生きているということに。
過去を生きることが、生きることだと思っていることに。

過去を見て、過去を学習して、生きる。
それが賢い、正しい、向上心ある生き方でしょう?
そう思っていたのだ。

今現在、この瞬間なんて見てないのだ。
今この瞬間を感じて、味わってなんていないのだ。
単純にそういう習慣だったのだ。

それに気づいたら、今を生きられる気がしてきた。

夜、ホテルに戻ってきて、昨夜と同じくホテルのビュッフェで夕食。
昨日に引き続き、ケーキとコーヒーまで好きなだけいただき大満足。

食事しながら、今日の感想を話し合う。
そして食後に、このインドツアーの主催者であり、わたしたちが参加している内観コミュニティの主宰者である女性が、全員にそれぞれカードを引いてセッションをしてくれた。

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わたしのカードは「THUNDERBOLT<稲妻>」と「Awakening<覚醒>」

サンダーボルトは、稲妻を受け、燃え、揺さぶられ、やむにやまれず塔から吹き飛ばされて落ちる人が描かれている。
人生が大きく変わるような変容が起こるときに引くカード。

アウェイクニングは、覚醒したがっている、本当の自分を、魂の道を生きたがっていることを示すカード。

心当たりがある?

そう聞かれて、もちろん白状せざるを得なかった。

朝に引いたカード「精神分裂症」と「宇宙」
その時からもう気づいていたこと。

今の慣れ親しんだ会社員としての生き方。
本当はもう、それとは違う生き方をしてみたいと思っていること。
だけど安全から、いい塩梅とろうとしたり、いつかいつかと見ないフリしていること。

そうしたい!飛び出したい!衝動と、まだまだ準備出来てない、まだまだ熟考できてない、と安全にしがみつく気持ち。

だって、次に何をしたいのか、明確なプランと収入源の目処が立ってない内に職を手放すなんて、頭オカシイでしょ?
やっぱりまた仕事探そうってなったって、私は高待遇の仕事が次々見つかるようなスキルがある人間じゃないの、年齢も厳しいの、今より条件落ちるだけ。
もし辞めたいなら、自分で生きていけるって確実に安定した結果を証明してからにしてよ。
それが私のなかの常識なんだから。

真っ二つの崖にまたがって、前にも後ろにも進めず、身動き取れず、どうしていいかわからない。

この安全へのしがみつき、それがもう限界が来てるの?
稲妻に破壊され、手を離さざるを得ない時が来ているの?
破壊のあとに、再生があることを受け入れて。

準備が整ったら次へ行ける、と言うことじゃないんだよ。
決めたら流れが来るんだよ。
まずは決めること!

そうアドバイスを受けながら、この時、急にわかったのだ。

「今この瞬間にもっと集中したい」

それは本当にその通りでもあるけど、ダミーの望み、意図だったんだ。

変わりたがっていることに抵抗していたから、そのことを見ないようにしていたから、仕事に対する集中力が無くなっていることを瞑想のテクニックでカバーしてようとしていたんだ。

必要なのはそんな集中のためのテクニックなんかじゃない。
根本的に、今この瞬間、何にエネルギーを注いで生きたいかっていうことだ。

今の仕事を自分ゴトとして自分の選択として、自分のエネルギーを使ってやるのか?ってことだ。
その生き方、その時間の過ごし方を、今選ぶのかってことだ。

過去はそうだったかもしれない。
現実としてその仕事を選ぶ以上、自分ゴトとして、自分の選択として、エネルギーを注いで誠実に向き合ってきたつもりだ。
続ける間はもちろんそうするつもりだ、したかった。

でも今、そう出来る?
意志の力を振り絞って集中しようとしているけど、出来てるの?
限界じゃない?

そんなことを突きつけられて、でも二つの崖の間で身動き取れないのは変わらない。
恐怖の中で手を離すなんて出来ない。

過去を生きているとわかっていても。

もうちょっとこの辺、詳しくおしえてくれない?
覚悟の決め方や、具体的なこと。

誰にということもなく、そうお願いしながら、その日は混乱のなか眠りについた。